最高裁 平成22年3月25日判決抜粋
本件は,被上告人の従業員であった上告人Y、及び同Z、(以下,両者を併せて「上告人Yら」という。)が,被上告人を退職後,上告人X、(以下「上告人会社」という。)を事業主体として競業行為を行ったため,被上告人が損害を被ったとして,被上告人が上告人らに対し,不法行為又は雇用契約に付随する信義則上の競業避止義務違反に基づく損害賠償を請求する事案である。
原審の適法に確定した事実関係等の概要は,次のとおりである。
(1)被上告人は,産業用ロボットや金属工作機械部分品の製造等を業とする従業員10名程度の株式会社であり,上告人Yは主に営業を担当し,上告人Zは主に製作等の現場作業を担当していた。なお,被上告人と上告人Yらとの間で退職後の競業避止義務に関する特約等は定められていない。
(2)上告人Yらは,平成18年4月ころ,被上告人を退職して共同で工作機械部品製作等に係る被上告人と同種の事業を営むことを計画し,資金の準備等を整えて,上告人Zが同年5月31日に,上告人Yが同年6月1日に被上告人を退職した。上告人Yらは,いわゆる休眠会社であった上告人会社を事業の主体とし,上告人Yが同月5日付けで上告人会社の代表取締役に就任したが,その登記等の手続は同年12月から翌年1月にかけてされている。
(3)上告人Yは,被上告人勤務時に営業を担当していたAほか3社(以下「本件取引先」という。)に退職のあいさつをし,Aほか1社に対して,退職後に被上告人と同種の事業を営むので受注を希望する旨を伝えた。そして,上告人会社は,Aから,平成18年6月以降,仕事を受注するようになり,また,同年10月ころからは,本件取引先のうち他の3社からも継続的に仕事を受注するようになった(以下,本件取引先から受注したことを「本件競業行為」という。)。
本件取引先に対する売上高は,上告人会社の売上高の8割ないし9割程度を占めている。
(4)被上告人はもともと積極的な営業活動を展開しておらず,特にAの工場のうち遠方のものからの受注には消極的な面があった。そして,上告人Yらが退職した後は,それまでに本件取引先以外の取引先から受注した仕事をこなすのに忙しく,従前のように本件取引先に営業に出向くことはできなくなり,受注額は減少した。本件取引先に対する売上高は,従前,被上告人の売上高の3割程度を占めていたが,上告人Yらの退職後,従前の5分の1程度に減少した。
(5)上告人Yらは,本件競業行為をしていることを被上告人代表者に告げておらず,同代表者は,平成19年1月になって,これを知るに至った。
原審は,上記事実関係等の下において,次のとおり判断して,被上告人の請求を一部認容すべきものとした。
(1)元従業員等の競業行為が,社会通念上自由競争の範囲を逸脱した違法な態様で元雇用者の顧客を奪取したとみられるような場合には,その行為は元雇用者に対する不法行為に当たるというべきである。
(2)上告人Yらは,本件取引先を主たる取引先として事業を運営していくことを企図して本件競業行為を開始し,上告人Yの上告人会社への代表取締役就任等の登記手続を遅らせるなど被上告人に気付かれないような隠ぺい工作等をしながら,上告人Yと本件取引先との従前の営業上のつながりを利用して被上告人から本件取引先を奪い,上告人会社の売上げのほぼすべてを本件取引先から得るようになる一方で,これにより被上告人に大きな損害を与えたものであるから,本件競業行為は,社会通念上自由競争の範囲を逸脱したものであり,上告人らによる共同不法行為に当たる。
しかしながら,原審の上記3の判断のうち,(2)は是認することができない。その理由は,次のとおりである。
前記事実関係等によれば,上告人Yは,退職のあいさつの際などに本件取引先の一部に対して独立後の受注希望を伝える程度のことはしているものの,本件取引先の営業担当であったことに基づく人的関係等を利用することを超えて,被上告人の営業秘密に係る情報を用いたり,被上告人の信用をおとしめたりするなどの不当な方法で営業活動を行ったことは認められない。また,本件取引先のうち3社との取引は退職から5か月ほど経過した後に始まったものであるし,退職直後から取引が始まったAについては,前記のとおり被上告人が営業に消極的な面もあったものであり,被上告人と本件取引先との自由な取引が本件競業行為によって阻害されたという事情はうかがわれず,上告人らにおいて,上告人Yらの退職直後に被上告人の営業が弱体化した状況を殊更利用したともいい難い。さらに,代表取締役就任等の登記手続の時期が遅くなったことをもって,隠ぺい工作ということは困難であるばかりでなく,退職者は競業行為を行うことについて元の勤務先に開示する義務を当然に負うものではないから,上告人Yらが本件競業行為を被上告人側に告げなかったからといって,本件競業行為を違法と評価すべき事由ということはできない。上告人らが,他に不正な手段を講じたとまで評価し得るような事情があるともうかがわれない。
以上の諸事情を総合すれば,本件競業行為は,社会通念上自由競争の範囲を逸脱した違法なものということはできず,被上告人に対する不法行為に当たらないというべきである。なお,前記事実関係等の下では,上告人らに信義則上の競業避止義務違反があるともいえない。
2019年01月29日